おやき通販 <公式>小川の庄【縄文おやき村】

店長プロフィール

おやき村のおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に。

『信州の郷土食おやき』の製造をしている権田公隆(ごんだこうりゅう)です。
長野県小川村、山すそに沿った道から山あいの集落を抜けた先におやき村はあります。

おやきを作って70年。子供の時からばあちゃんに教わりながらはるーか(ずっと)作ってるで、こんなに元気なんだよ!
なんて囲炉裏でおやきを作っているのは松本藤子さんと権田近芳さん。年は86歳に92歳。
そしてその中で様々なことを教わっているのが、店長の権田公隆です。
じいちゃんばあちゃんにすれば孫みたいな年なので様々事を教わりかわいがってもらっています。

温泉街で旅館やペンションでバイト

小さいころからおばあちゃんと仲良しだったぼくは、おばあちゃん手づくりのおやきで育てられました。
トムソーヤの冒険などの冒険記に感化され、村内のさまざまな場所を冒険するのが大好きだった子供時代。
あるときは、カブトムシの森に行き、ハチに追われながらもたくさん捕まえました。
しかしあまりにも遠くの森で、のども乾きすぎたため、夜間瀬川の水を飲んだりして、気が小さいので、体調壊すんじゃないかと半日くらい心配したものです。

小学校・中学校・高校と地元の学校に通い、アルバイトは旅館やペンションを手伝いました。
温泉街で育ったので、仕事は配膳や布団上げ、掃除としんどかったけど楽しいバイト生活でした。

印刷会社で売上ナンバーワン

東京の大学を卒業後、就職先は印刷会社。旅行会社を志望していたが、これもご縁なのでしょうか?小さい会社だったが、アットホームな社風や社長に惹かれ、営業職を志望、どんどんやりがいが増えてくる。ついに売り上げNO.1をとれました。
大手企業の販促物を制作するにつれ、制作物に対する経験を付けることができました。
この経験は今の仕事にもとても役に立っています。

子どもの将来のたに信州へ帰ったほうが・・・?

東京で仕事にも慣れたころ今の愛妻と結婚し、夫婦共働きの忙しい中、子供が生まれます。
子供がよく病気をしたこともあり、夫婦ふたりだけの子育てはとても大変でした。
仕事が一番楽しかった時でしたが、子供のこと、これから先のことを考えると長野県に帰った方が良いのかもしれない・・・妻と何度も話し合いました。
特に奥さんはキャリアを生かした仕事だったために、長野県の小川村という田舎に行くのはとても決断がいったことだと思います。
東京で作った人脈もキャリアも捨てて、10年以上務めた仕事も辞め、信州で再出発。できるだろうか?
でも東京で子育てをするのは子どもの健康のためにもよくない・・・妻を説得し、二人で下した決断でした。

故郷の信州へ戻り、浦島太郎。

信州に帰ったぼくは、親父が経営していた小川の庄に入社し、食品製造をいちから学びました。
入ってからわかったのですが、大人になってからずっと東京で暮らしていたので、田舎での人脈の作り方がわかりません。
会社の歴史は古いのに何もかも知らない事だらけで、浦島太郎状態です。
しかし当時世の中の流れは通販に向かっており、通販とネット事業立ち上げの中心メンバーとして、軌道にのせるのに夢中の毎日がはじまりました。
印刷営業の経験を活かし、通販事業はどんどん軌道にのっていきました。
ところがそんな中、突然、創業者、親父(権田市郎)が急逝します。
ぼくが一緒に仕事をしたのはわずか2年足らずでした。

2度の会社存続の危機

いきなり外に投げ出されたような感じで、右も左も分からぬまま、只々会社を存続しなくては・・・従業員一同一丸となっての経営再建がはじまります。
専務だった叔父が社長になり、会社経営も新たな社風のなか始まりました。
しかし、その3年後、叔父が病気になり、しばらく社会復帰が困難な状況に。
まだ未熟なぼくにさまざまな決断が試されるようになってしまいました。
ふたたび、会社存続の危機がめぐってきました。

代表としての責任を忘れていた時代

このときぼくは形だけの代表(社長代行)になってしまいました。
ここまで5年、父親がいなくてもなんとかベテランの社員さんのおかげで会社を回していましたので、きっとなんとかなるはず・・・なんて軽く考えていたのかもしれません。
しかし、経営は一向に上向きにならず・・・それでも歴史のある会社、ベテランの社員さんが大勢いてくれたおかげで、なんとか経営を維持していくことができました。
僕は会社の代表としての責任を忘れていた時代でした。

社内の重鎮にこっぴどく怒られ・・・

ある年の暑気払いの2次会。
僕のうっかりした軽い口調に、社内の重鎮におもいっきり怒鳴られたことがありました。
今まで大変穏やかな方だったのに、こんな怒り方をするのかというくらいの勢いでした。
まわりもなだめてくれその場は終わりましたが、僕にはガツンと、今までの考えを更生するくらい重要な時間でした。
会社がこれからどう存続していくか・・大事な時に楽観的にのん気にしていたぼくにカツをいれてくれたのです。
今はこのお方は僕の懐刀で、これがあったからこそ、今の自分があると信じています。本当にありがとう。

心を開いて初めてわかる

そしてわかりました。田舎には田舎の接し方があることを。
自分から心を開いていかないと何も変わっていかない。
昔の経験なんかにしがみついている場合じゃないのです。
教わることを恥じない、素直になって、わからないことはわからないと聞かなきゃ、誰も教えてくれないと。
それがわかったときに、まわりの人が、心から自分の協力者になってくれることがわかってきました。
親父はぼくに、大事なことを伝えきれないまま急逝してしまったと思います。
でも、「オヤジさんはこういう人なんだよ」「こんなことを公隆くんに伝えたかったんだよ」それを残った人がぼくに伝えてくれるのです。

おやきの元祖はおふくろの作ったおやき

信州の山間部でおやきを製造し、そして販売する。なぜこの山奥なのか。
今では長野県の代表的な郷土食で知られるおやきですが、この小川村が発祥ともいわれています。
当地では、それぞれの家庭で昔からお米代わりに食べる主食でした。
その家庭ごと代々伝わる伝統の味もたくさんあり、おやきの元祖と言えばおふくろの作ったおやきなのでしょうか。

おやきには僕のばあちゃんがくれたヒントがたーくさん詰まっています。
この地で、みんなが愛しているこのおやきを、地域の人々とともに、全国へ広げたい。
この文化を廃れることなく次世代へつなげたいと思っています。

僕自身、とても弱い人間です。
明るくない、くよくよする、行動が遅い、中途半端、やりとげない

しかし、常に明るく、小さなことでも必ず実行し、前向きに、決断早く、やりとげる。
愛され続けて30年が経ちましたが、40、50、60、70年と一歩でも前に進めるようやっていきます。

おやき食べたいね なんて時 お手伝いさせて頂ければ幸いです。

店長プロフィール 信州長野おやきの元祖「縄文おやき」のお取り寄せ、小川村にあるおやき村のご紹介をしています

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