おやき通販<公式>小川の庄 【縄文おやき村】

《小川の庄・縄文おやき村本店》

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会社概要

会社概要


信州小川の庄は1986年に小川村の第三セクター方式による村事業で生まれた、おやき製造販売の会社です。「おやきの元祖」はこうした古い時代の知恵から生まれ、信州の食文化の象徴とされています。

元祖信州のおやき・縄文おやき

おやきは素朴な食べ物です。
野菜や山菜を油で炒め、味噌や醤油で味付けし、小麦粉を練った生地で包んでこんがりと焼きます。
昔から信州小川村の家族は、囲炉裏を囲み夕食のひとときを楽しんでいました。
それは信州の郷土食の原点ともいえる『おふくろの味』です。

縄文おやき村がある、長野県小川村の筏が原には、縄文時代中期の遺跡があり、数千年前に住んでいた縄文人たちが、当時の農耕による穀類で粉を作り食料としていたと言われています。
「おやきの元祖」はこうした古い時代の知恵から生まれ、信州の食文化の象徴とされています。

小川の庄について

1986年小川村の第三セクター方式による村事業で生まれた、おやき製造販売の会社です。
村のお母さんや、おばあちゃんたちが、生涯現役で生きがいをもって働ける職場づくり、村の宝である、美味しい山菜や野菜、きのこなどの特産物を生かした商品づくりで、活気ある地域づくりに挑戦しています。

小川の庄では、昭和61年に信州西山農協が「ふるさと田舎事業」の指定を受け、その一環として漬け物産業を引き受けることから始まりました。
【第3セクター方式による新しい村づくり事業】という長い肩書には、「村も一体になって応援しよう」という親心が込められています。

自社内や、契約農家さんによる農産物生産の「 第一次産業」そして、おやき・漬け物・味噌・調味料・お惣菜などの加工を行う「第二次産業」
そして、これらの製品を直営店舗や全国で、さらに海外に販売展開を行うまでの果敢な挑戦を続けています。

囲炉裏の雰囲気を味わいに来てください

信州のふるさとの味を、美味しく手軽にご家庭で食べられるように、このたびネットショップをリニューアルいたしました。
また、小川村の「おやき村」では、囲炉裏端の雰囲気を楽しみながら、おやき作りを体験したり、おやきや手打ちそばをお召し上がりいただけます。

いつものあの味と共に、みなさまの喜びのお手伝いをさせていただけることを、心よりお待ちしております。

会社概要

会社名 株式会社 小川の庄
本社所在地 〒381-3302長野県上水内郡小川村高府2876番地
マップで表示
電話番号 TEL:026-269-3760 FAX:026-269-3763
代表 権田 公隆
設立 1986年5月
従業員数 78人
資本金 3,000万円

小川村→小川の庄への交通案内

お車の方

《東京方面》 上信越自動車道長野IC→R19→県道長野大町線→小川村
《名古屋・大阪方面》 長野自動車道安曇野IC →R147・高瀬川右岸道路→大町市→県道長野大町線→小川村

小川の庄おやき村(マップの表示

JRの方

《東京方面》 長野新幹線長野駅下車→川中島バス高府・初引行き高府下車
《名古屋・大阪方面》 篠ノ井線・中央西線長野駅下車→川中島バス高府・初引行き高府下車

小川の庄おやき村(マップの表示

飛行機の方

松本空港→長野高速バス長野バスターミナル→川中島バス高府・初引行き高府下車

小川の庄おやき村(マップの表示

店長プロフィール

おやき村のおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に。

『信州の郷土食おやき』の製造をしている権田公隆(ごんだこうりゅう)です。
長野県小川村、山すそに沿った道から山あいの集落を抜けた先におやき村はあります。

おやきを作って70年。子供の時からばあちゃんに教わりながらはるーか(ずっと)作ってるで、こんなに元気なんだよ!
なんて囲炉裏でおやきを作っているのは松本藤子さんと権田近芳さん。年は86歳に92歳。
そしてその中で様々なことを教わっているのが、店長の権田公隆です。
じいちゃんばあちゃんにすれば孫みたいな年なので様々事を教わりかわいがってもらっています。

温泉街で旅館やペンションでバイト

小さいころからおばあちゃんと仲良しだったぼくは、おばあちゃん手づくりのおやきで育てられました。
トムソーヤの冒険などの冒険記に感化され、村内のさまざまな場所を冒険するのが大好きだった子供時代。
あるときは、カブトムシの森に行き、ハチに追われながらもたくさん捕まえました。
しかしあまりにも遠くの森で、のども乾きすぎたため、夜間瀬川の水を飲んだりして、気が小さいので、体調壊すんじゃないかと半日くらい心配したものです。

小学校・中学校・高校と地元の学校に通い、アルバイトは旅館やペンションを手伝いました。
温泉街で育ったので、仕事は配膳や布団上げ、掃除としんどかったけど楽しいバイト生活でした。

印刷会社で売上ナンバーワン

東京の大学を卒業後、就職先は印刷会社。旅行会社を志望していたが、これもご縁なのでしょうか?小さい会社だったが、アットホームな社風や社長に惹かれ、営業職を志望、どんどんやりがいが増えてくる。ついに売り上げNO.1をとれました。
大手企業の販促物を制作するにつれ、制作物に対する経験を付けることができました。
この経験は今の仕事にもとても役に立っています。

子どもの将来のたに信州へ帰ったほうが・・・?

東京で仕事にも慣れたころ今の愛妻と結婚し、夫婦共働きの忙しい中、子供が生まれます。
子供がよく病気をしたこともあり、夫婦ふたりだけの子育てはとても大変でした。
仕事が一番楽しかった時でしたが、子供のこと、これから先のことを考えると長野県に帰った方が良いのかもしれない・・・妻と何度も話し合いました。
特に奥さんはキャリアを生かした仕事だったために、長野県の小川村という田舎に行くのはとても決断がいったことだと思います。
東京で作った人脈もキャリアも捨てて、10年以上務めた仕事も辞め、信州で再出発。できるだろうか?
でも東京で子育てをするのは子どもの健康のためにもよくない・・・妻を説得し、二人で下した決断でした。

故郷の信州へ戻り、浦島太郎。

信州に帰ったぼくは、親父が経営していた小川の庄に入社し、食品製造をいちから学びました。
入ってからわかったのですが、大人になってからずっと東京で暮らしていたので、田舎での人脈の作り方がわかりません。
会社の歴史は古いのに何もかも知らない事だらけで、浦島太郎状態です。
しかし当時世の中の流れは通販に向かっており、通販とネット事業立ち上げの中心メンバーとして、軌道にのせるのに夢中の毎日がはじまりました。
印刷営業の経験を活かし、通販事業はどんどん軌道にのっていきました。
ところがそんな中、突然、創業者、親父(権田市郎)が急逝します。
ぼくが一緒に仕事をしたのはわずか2年足らずでした。

2度の会社存続の危機

いきなり外に投げ出されたような感じで、右も左も分からぬまま、只々会社を存続しなくては・・・従業員一同一丸となっての経営再建がはじまります。
専務だった叔父が社長になり、会社経営も新たな社風のなか始まりました。
しかし、その3年後、叔父が病気になり、しばらく社会復帰が困難な状況に。
まだ未熟なぼくにさまざまな決断が試されるようになってしまいました。
ふたたび、会社存続の危機がめぐってきました。

代表としての責任を忘れていた時代

このときぼくは形だけの代表(社長代行)になってしまいました。
ここまで5年、父親がいなくてもなんとかベテランの社員さんのおかげで会社を回していましたので、きっとなんとかなるはず・・・なんて軽く考えていたのかもしれません。
しかし、経営は一向に上向きにならず・・・それでも歴史のある会社、ベテランの社員さんが大勢いてくれたおかげで、なんとか経営を維持していくことができました。
僕は会社の代表としての責任を忘れていた時代でした。

社内の重鎮にこっぴどく怒られ・・・

ある年の暑気払いの2次会。
僕のうっかりした軽い口調に、社内の重鎮におもいっきり怒鳴られたことがありました。
今まで大変穏やかな方だったのに、こんな怒り方をするのかというくらいの勢いでした。
まわりもなだめてくれその場は終わりましたが、僕にはガツンと、今までの考えを更生するくらい重要な時間でした。
会社がこれからどう存続していくか・・大事な時に楽観的にのん気にしていたぼくにカツをいれてくれたのです。
今はこのお方は僕の懐刀で、これがあったからこそ、今の自分があると信じています。本当にありがとう。

心を開いて初めてわかる

そしてわかりました。田舎には田舎の接し方があることを。
自分から心を開いていかないと何も変わっていかない。
昔の経験なんかにしがみついている場合じゃないのです。
教わることを恥じない、素直になって、わからないことはわからないと聞かなきゃ、誰も教えてくれないと。
それがわかったときに、まわりの人が、心から自分の協力者になってくれることがわかってきました。
親父はぼくに、大事なことを伝えきれないまま急逝してしまったと思います。
でも、「オヤジさんはこういう人なんだよ」「こんなことを公隆くんに伝えたかったんだよ」それを残った人がぼくに伝えてくれるのです。

おやきの元祖はおふくろの作ったおやき

信州の山間部でおやきを製造し、そして販売する。なぜこの山奥なのか。
今では長野県の代表的な郷土食で知られるおやきですが、この小川村が発祥ともいわれています。
当地では、それぞれの家庭で昔からお米代わりに食べる主食でした。
その家庭ごと代々伝わる伝統の味もたくさんあり、おやきの元祖と言えばおふくろの作ったおやきなのでしょうか。

おやきには僕のばあちゃんがくれたヒントがたーくさん詰まっています。
この地で、みんなが愛しているこのおやきを、地域の人々とともに、全国へ広げたい。
この文化を廃れることなく次世代へつなげたいと思っています。

僕自身、とても弱い人間です。
明るくない、くよくよする、行動が遅い、中途半端、やりとげない

しかし、常に明るく、小さなことでも必ず実行し、前向きに、決断早く、やりとげる。
愛され続けて30年が経ちましたが、40、50、60、70年と一歩でも前に進めるようやっていきます。

おやき食べたいね なんて時 お手伝いさせて頂ければ幸いです。

小川の庄のはじまり

小川村には昭和30年代の初めに、「こだま会」という地域に住む青年達の同志的集まりがありました。
青年達の職業は様々でしたが、仕事を終えて毎晩のように公民館に集まって地域の将来について話し合っていました。

ある時、村の教育長さんから「最近は子供の数が急激に少なくなり、今年生まれた赤ん坊が小学校に入学してくる頃には、1年生の数が半分になってしまう。」という話を聞き、小川村の行く末に強い危機感を持ちました。
この危機感に駆り立てられ、若者たちは村をより良くするための検討を真剣に行うようになりました。

しかし、資金も技術もない青年達に具体的な構想を描くことは出来ませんでした。
そこで、『村を発展させるために外に出て見聞を拡げて技術を蓄え、10年後には必ず村に戻って力を合わせて村づくりをしよう』と固く約束しました。
そして、ある者は村役場を辞めて食品加工の会社へ転職し、ある者はその決意を胸に現在の仕事に必死に励みました。

それから16年の年月が経った昭和61年に、「こだま会」の7人の仲間達で地元農協、食品加工会社、地元住民が共同出資する第三セクター方式による新しい村づくり事業として「小川の庄」を設立したのです。
そして、「こだま会」で良く話し合っていた『この村に住む人が、生涯現役で生き甲斐を持って働けること』を経営の理念にしたのです。

会社名の「小川の庄」は、かつて平安時代に北安曇郡美麻村から小川村、 中条村、 長野市の一部を範囲としていた荘園が「小河庄」と呼ばれていたことに由来しています。
「小川の庄」の命名には、小川村だけでなく歴史と文化を同じくするこれら地域の、共通の発展と連携を実現しようという願いが込められています。

小川の庄のあゆみ

昭和61年

5.10 創業者 権田市郎は、出資者 7 名で 起業
資本金 3000万円(設立当時500万円)
5月 株式会社小川の庄設立
6.16 西山農協本所でお祝いの式典を行う小根山工場で漬物の生産はじまる
11.23 おやき村開村
11.28 長野産業開館で西山名産おやき試食会
おやき村村長を先頭に県庁、信濃毎日新聞社などへ縄文おやきの宣伝に回る
小根山工場におやき5万個を収納できる冷凍庫を設置

昭和62年

2.1 長野母袋店開設
4.28 縄文竪穴式住居完成
7.13 下市場工房開設

昭和63年

4.10 小根山工場増築工事
4.29~5.5 第1回おやき村春祭りに15,000人の人出で賑わう。おやき村グラウンドよりNHK衛星中継行なわれる
6.3 衛生施設優良につき、長野保健所長より賞状を受ける
7.20 夏和(現住所)へ事務所引越し
12.7 野菜加工工房起工式

平成元年

1.11 高府工房開設
3.28 雲井公園店開設。夏和農園村開村
4.29 長野の小川の庄開店
10.2 おやき神社遷宮祭
11.22~30 ロサンゼルス「ジャパンエキスポ'89」に初参加。アメリカ、日本国内の新聞・TV・ラジオで取り上げられる
12.15 小根山工場改築工事がはじまる

平成2年

2.2 小根山工場具工房併設完了、生産再開
5.25 やまぶき通信1号発行
7.12 御射山農事実行組合設立総会
10.1 御射山処理場起工式
11.21~28 ロサンゼルス「ジャパンエキスポ'90」参加。権田近芳団長ら21名。おやき教室、そば教室大盛況
12.19 松本の小川の庄開店

平成3年

3月 御射山農事実行組合農産物処理施設工場完成。協力工場信級工房開設
7.23 瀬戸川工房開設。野沢菜村開村
9.1 小川の庄本部事業所新築。野沢加工工房開設
11.27 ロサンゼルス「ジャパンエキスポ'91」に参加
12.20 茅野の小川の庄開店

平成4年

3.15 小川の庄マスコット「夢爺」決まる。
4.9~14  サンフランシスコ桜まつりにおやき出店
4.20 軽井沢の小川の庄開村
9.5 ロサンゼルスおやき村開村(パシフィックマーケット内に店舗建設)
9.18~25 「ヨーロッパ花街道・ふれあいの旅」に村内外から24名が参加。村長からの親書をドイツ・グータッハ村ザール村長に渡す
11.5 生活協同組合がおやきを扱いはじめる
11.25~12.4 ロサンゼルス「ジャパンエキスポ'92」戸谷英雄団長以下15名参加。中条高校生2名も初参加
12.21 おやき村川中島店開店。平安こやきを販売

平成5年

1.6 協力工場千見おやき生産組合開設
2月初旬 おやきん棒の試作始まる。
11.24 ロサンゼルス「ジャパンエキスポ'93」に参加(~12.2)

平成6年

8.10 横浜の小川の庄開店
8.24  にんにく焼きみそを初めて電気釜で試す
11.23 ロサンゼルス「ジャパンエキスポ'94」参加(~12.1)

平成7年

1月~4月 阪神淡路大震災「信州のあったかおやきプロジェクト」協力支援。社内からもボランティアを出す。ほかほかおやきで被災者を励ます
2.3 オーストラリア農村事情視察
3.28 松本店、店舗改装
9月中旬 おやき村舞台屋根完成
10.12 「ジャパンエキスポ'95」に権田辰夫団長以下9名参加(~20)
12.12 小川の庄の関連会社として国際農村交流(株)を設立

平成9年

4月 山菜村加工工房の移転計画により、新工場予定地に新設していた工場排水処理施設およびプラント工事が完了する。
5月 冬季長野オリンピックに向けて縄文おやきの需要始まる。
11月 第9次ジャパンエキスポ97に参加。好評を得る。

平成10年

2月 長野冬季オリンピック開催。全会場(長野市、志賀、軽井沢、白馬)にて縄文おやき販売、好評を得る。
11月 第10次ジャパンエキスポ98に参加団を送る。好評を得る。

平成11年

4月 山菜村加工工房の一部移転をはじめながら操業を続ける。
11月 今回で終了する第11次ジャパンエキスポ99に参加団を送る。
連続11回出展し、アメリカに縄文おやきの知名度を高めた。

平成12年

5月 山菜村加工工房が新工房に移転、稼動開始。

平成13年

5月 農園村おやき工房の増設・改装が終わり量産体制にはいる。

平成15年

4月 山菜村加工工房の改装終了。ビン詰め、漬物、惣菜の製造が始まる。
9月 NHK教育テレビ『21世紀ビジネス塾』==おやきが村を救った==が全国放映され各地からの視察が増大する。

平成16年

3月 NHKテレビ『クローズアップ現代』==地域再生の主役お年寄り==が全国放映され、全国からの注文や反響が大きかった。
9月 長野県観光協会の要請により『日本全国名産文化芸匠大展』が台湾、韓国で開催。おやき、釜めし、農家の味自慢商品を出展

平成17年

10月 二十周年記念事業として善光寺大本願第121世住職鷹司上人様および若麻績﨟僧様より御真筆を賜り、記念碑を建立、御上人さまにご末臨を賜り記念の式典をおこなう。

平成18年

4月1日 2代目代表に就任

平成23年

3月 東北大震災 長野県北部地震 現地ボランティア派遣

平成25年

10.1 3代目権田公隆 代表に就任
11.22 おやき村いろり ボヤ騒ぎ

平成26年

11.22 白馬小谷小川 断層地震

平成27年

3月 MIDORI長野店 開店
5月 善光寺御開帳

平成28年

5月 小川村御柱祭